黒姫山麓に生きる

黒姫の開拓地

昭和22年、復員した狩野さんは、入植者としてこの黒姫山麓に入った。21歳の時であった。

「入植したといっても私は深川生まれの深川育ち、農業についてはまるっきりの素人、その上このあたりではこんな太い木、(両手で円を作って・・・・直径50-60センチぐらい)がそびえ立ち、身の丈もあるような熊笹でおおわれているんです。その藪を刈り、木を倒し、根を掘り起こすわけですが、それと同時に自分の住まいを作らなければなりませんでした。初めは空いていた炭焼き小屋に入りましたが、そこにいつまでもいるわけにはまいりませんので、倒した木で掘立小屋を作りました。ご承知のようにこのあたりは雪が深いので、簡単な小屋では押しつぶされてしまいますから・・・・初めはなかなかうまく行きませんで、なにしろ一人でやるのですから、重い梁を担ぎ上げるのに、その丸太といっしょに墜落するようなこともしばしば、その度に見物している子供たちが『熊が落ちた』といって笑うのですよ。」

―開拓には助成金のようなものがでたのですか?

「ええ、一反(約10アール)耕すといくら、と奨励金が出るのですが、開墾がすまなければもらえませんから、昼は伐採と小屋作り、夜は月明かりをたよりに開墾、昼夜の別なく働きました。疲れると草をかぶってどこでもごろ寝、あのころは睡眠時間がほんとうに、1-2時間というのがざらでした。」隣で柿の皮をむいていた奥さんが、「その頃からの習慣でしょうか、今でも4-5時間ぐらいの睡眠しかとらないのですよ・・・・(ご主人に)あなたどこかで昼寝するんじゃないの(笑)。」「入植したのが9月でしたから、まもなく雪がきますから、なんとしても寝るところだけは作っておかなければなりません。気力と体力を大地にたたきつけ、自分の極限にいどんだような毎日でした。」

―それじゃ丈夫な人でないと開拓地は入れませんね。

「頑丈とか、丈夫などと言っておれませんね。生きて行かなければなれないという宿命をおびてきたものですから。しかし、何人も死んで行きましたね。医者もいなければ薬もない。毒消し売りも来ないし山道を下って村の医者に行くとしても、貧乏な開拓者にとって、満足な診療をうけることは不可能でした。『せめて一度だけでも医者に見せてやりたかった』と通夜の晩に語る肉親の言葉は、開拓者みんなの心からの叫びでもありました。」

開墾地の小高い丘に墓標が並んでいる。この開拓に命を捧げて逝った人々の休息の地である。狩野さんはあの時ほど医者がいてほしいと思ったことはなかったと、またしも自分が医者だったら、地下足袋はいてリュックを背負って無医村を診てやりたいと当時を回顧するのであった。

―開拓というのは並大抵の仕事でないことは想像できますが、狩野さんはなぜ、また何を求めて入植なさったのですか?

「私は九州知覧の特攻隊基地で終戦を迎えました。国の命運と自分の運命について煩悶し、深川の自宅の焼跡に立ちました。そして人足や清掃人夫になって働きました。飢餓と疲労で野良犬のようになった私はこれからの生き方を真剣に考えたとき、まず自分の良心に恥ずかしくない生き方をしたい、隣人、同胞をごましかて自分だけ生きのびるようなことはしたくない。それには都会よりも農村の生活のほうが真実な生き方が出来ると思いました。ちょうどその時、黒姫山麓で入植者をつのっていることを知り、直ちに現地へ向かいました。父母や弟妹たちが信州に疎開していたこともありましたがなによりも黒姫という名に神秘さを覚えました。・・・・最初にまいた種はたしかそばだと思いますが、根や石を取りのぞいた畑に、朝起きて見ると青い芽がぞっくり出ているのです。その時私は感激しましたなあ、これが大自然だ。その印象は強烈でした。ああこれが真だと、思わず合掌しました。」当時の感動がよみがえってきたかのように、狩野さんは目をうるませて語っておられた。

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