黒姫山麓に生きる

自然道場

「山の子供たちは、ケンカが強かったですね。その子供たちに落ち着きと真剣な気持ちを持たせるために空手を教えました。私が学生時代に習得したものですが、開拓の合間に一人でけいこを続けていましたが、村の若者たちが教えてくれというので指導もしていました。これは現在でも続けています。」

―工場の前の建物の2階が道場になっていますね。いつ練習をしているんですか。

「工場を修理するため昨日から道場に材料を運び込んでいますので、今は使用していませんが、毎週柏原小学校の体育館で、小学生から高校生まで約70-80名が毎週日曜日にけいこをしています。だれでも入会できるのでなく、ある規則を設けています。まず親のない子、体の弱い子、勉強のできない子、ケンカばかりしている子・・・。」

―どうしてそんな子ばかり・・・・

「勉強ができて、丈夫な子は自分でやって行くことができますが、いろいろハンディのある子は、いじけやすいですからね。小児マヒで半身不随の子が、『おじさんおれでも空手はできるね』と言うんです。片手は全然使えず松葉杖をついていた子が、空手というのは、手が無くてもと思ったらしいのです。私は『ああできるよ』と励ましました。ある大会がありましてね。その子が松葉杖も使わず、体をシャンと伸ばして堂々と空手の型を披露しました。私はかつてあの荒地にまいた種が青い芽を出した時と同じ感動を覚えました」

―ここには至る所”自然道場”と書かれていますが、これはどういう意味ですか。

「私は荒地の開拓も、延命茶を作ることも、空手もみんな魂の開拓だと考えています。黒姫の自然の中でそれをやっていこうと考えたのです。高村光太郎が岩手の山中に入って『山に棲んでみて、私は一年365日の日々の意味を知った』といっています。また『雨ニモマケズ風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ・・・』とうたった宮沢賢治の生き方がわれわれ開拓農民の誓いでした。この建物(一番新しい鉄筋二階建て)は都会を離れこの黒姫の自然に交わってほしいと願い、研修等に利用していただけるように作ったのです。この自然が道場なのです。」

戦後の日本経済は26-7年の朝鮮戦争のころから急速に回復しはじめた。そして食糧の増産より、国内の工業化により、食糧や種々の原料を外国から輸入するように政策が変わってきた。
更に二十七年から連続した冷害によって開拓地は打ちのめされた。当時の農林大臣は「効果のあがらない開拓はやめ、農村人口を他の産業に吸収する事を考えねばならない」と語った。新農村建設策によって、開拓融資や補助は打ち切られ、そのうえ今までの借入金に対して、農林中金や政府からは矢の催促であった。
平地の農家でさえ、農業経営は楽でないとき、まして、開拓地の苦しみは実に暗澹たるものであった。都会の騒動はニュースになり社会の焦点にもなるが、山間に忘れられた開拓地の悲惨さには新聞やラジオは目もくれなかった。
開拓組合長としての狩野さんはこうした問題の矢おもてに立たされ、陳情に、対策に、農協、役場、地方事務所、農林金庫、県庁に、そして国会へと東奔西走の毎日であった。狩野さんの父、倉吉氏が他界したものそうした苦難の時代で、過労が原因であった。

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