黒姫山麓に生きる

山の子供達

―最初の冬はどのように過ごされましたか?

「雪というのは天から静かに音もなく降るものと思っていましたが、この高原では下からも吹き上げるのです。ですから開拓小屋ではすき間から容赦なく雪が入りこんできまして、寝ている間にふとんの上に雪が一尺も積ってしまうこともあります。その初めて冬、友人が様子を見に来たのですが、雪の下にうずまっているのを発見して”狩野が死んでいる”と部落中大さわぎをしたりしました。」

 

「”冬眠中”と、小屋の前に看板を下げたというのは、その時のこと?」と奥さんが尋ねた。

「何しろ食べ物は少ないし、起きていると腹がへりますから寝ていようと思ったわけです。そのうち山を下りて、どこかへ出稼ぎに行かなくてはと思っていたのですが、気をつけてみると開拓村の子供たちが学校へ行かないのですね。いや行けないのです。吹雪が荒れ狂い出しますと、大人でも外に出られない日が続きますから・・・・。たまたま三年生の子供が算数の宿題がたまっているから教えてくれと言うので見てあげていたら、翌日山の子供たちが全部、私の小屋に押しかけてきて『今日からここが学校だ』というのです。昨日まで”てんぐのおっさん”が急に先生になってしまいました。」

―その分教場(?)は公に認められたのですか?

「これは問題がありましてね。冬の間子供だけでも下宿させる事も考えたのですが、開拓地の人々の生活は明日の米代もないのに、宿舎代や食費が払えるわけもないし、学校から毎日先生が出かけてくるのも、吹雪くと大人でさえ歩けなくなります。私は元特攻隊員だったというところからGHQ(連合軍司令部)からにらまれていましたから・・・・。しかしたに良い方法がないものですから、村長も、校長も、しかたなしに認めていたようです。」

 

月に一度ぐらい本校から若い女の先生がのぼってくる。山の子供たちにはそれが天使のように見えるらしく、その一日はこの山小屋の学校は春が来たような明るさであったという。この小屋の黒板も机もみんな狩野さんと子供たちの手製であった。また学習の方法も狩野さんの考案した「兄妹学習」方式である。これは上級生が下級生、二年生が一年生をと教えるわけである。下級生から聞かれて、「おらあ知らね」とは言えないから、自然と勉強するようになる。狩野さんは最上級生の中学生と、各学生を総括的に指導するわけである。この方式には本校の先生方も驚いたという。

おれのうちにはたたみがないので
むしろをひいている。
むしろはたたみよりうすいので
けつのしたが、しやこくなる。
たたみは四角できれいだ。
いっぺんでいいから
たたみのうえでねてみたい。
(小学六年)

父ちゃんが死んだ
この原っぱに入ってひとむかし
風の日も、雨の日も
泥まみれ、土ほこり
かかしのように、働きどうし
「かいたくはくるしいが夢がある」
いつも父ちゃんのくちぐせ
原っぱのなかから
きこえてくるようだ
(中学一年)

いそがしい母の手
いつもひまのない手
子らの世話から
家のこと
田畑のことまで
ひまのない母の手
悲しいときも、楽しいときも
いつも見守る母
枯木のようになった母の手
あかぎれだらけの母の手
寒風に吹かれて痛むようだ
(中学一年)

父が出稼ぎにいくという
「いつまでいってくれあ」といったら
「ふたつきぐらい、いってくるがのう」という。
ぼくは「いついくんだ」というと
「三日にいくだ」という。
「どこさゆくだ」ときくと
「海ばたにいくだあ」
「なにおれとこば見ているだ」というと
「おめえのつらをわすれねようにするだ」といいました。
あくる朝、目がさめたら
父はいませんでした。
(小学六年)

山の子供たちはクレヨンや鉛筆、ノートを欲しがった。それを与えることができない狩野さんは、放課後山を下りて町へ行って稼ぐ方法を考えた。長野駅前に行燈をともして大道易者となった。山から下りた格好はそのまま易者スタイルであった。長髪にひげ面、古びた紋付の羽織、「蒼天堂(そうてんどう)」と名づけた行燈、筮竹(ぜいちく)と天眼鏡を持ち、毎晩駅前に立つと名物のようになり、けっこう客もついた。深夜に台を片づけて、駅の待合室を常宿としている浮浪者と共にそこに休ませてもらい、一番列車で帰るのであった。こうして稼いだ金が、山の子供たちの学用品になった。
山の子供たちは本校から”分教場”といわれるのをきらった。そこで子供と山小屋学校の名前について相談し、「桃太郎」と名づけることにした。子供たちは白樺の丸太を削って「桃太郎学校」と書いて小屋の前に立てた。

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