黒姫山麓に生きる

火の試み

―工場を拝見させていただいたとき、薬草が置いてある場所に「風雪記」というのが書かれて、たくさんの名前が記されてありましたが、あれは・・・。

「46年3月、私が長野に出ているとき、『工場が火事です』と電話がありました。タクシーのスピード゙ももどかしく黒姫へ向かいました。近づくと黒煙とまだ炎が見えるのです。みんなの手で築き上げた工場が灰になろうとしている姿でした。苦しみを共にしてきた社員が懸命に消火作業をしていました。明日からの社員の身のふり方、月末の支払い、お得意さんへの発送・・・・、いろいろ考えると目の前が真暗でした。妻の目にもあきらめに似た疲れが見えました。黙って手を握り合いました。小学校へ行っていた三人の子は泣きながら帰ってきました。
私は子供たちに、『長い人生にはいろいろなことがあるんだよ、今日の火事で、お父さんやお母さんがとった態度や、これからのことをよく見ておきなさい』と話しました。私はまだ余燼がくすぶっている中で全員を集め、『災い転じて福となすことを現実に実験してみよう』と語りかけました。」

翌日から片づけと同時に生産も再開した。テントを張り、吹き込む雪をはらいながら徹夜をして延命茶を作り、お得意さんにはなんとか製品を間に合わせ、自分たちの手でまた、工場を作り始めた。工場を案内してくれた若い社員が「この部分は全部社員の手で作ったものなのです」と説明してくれた。こうした再建に努力している姿を、損害額の査定に来ていた火災保険会社の人が、「こんな大事故にあっても、いささかもひるまないで努力している会社はめずらしい、このような企業の復興を助けるのが本来の任務です」と最大限の協力をしてくれたという。こうして火災以来50日足らずで復興したのは、みんながこの工場を開拓地の灯として守りぬこうという意気を持っていたからではなかろうか。

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